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残り香



残り香といえば、田山花袋の蒲団が有名でしょうか。女弟子を受け入れたものの、彼氏が出来たことに嫉妬して故郷に送り返す話です。彼女を故郷に送り返した後、彼女が使った蒲団の残り香を嗅ぐ話です。

女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知れず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。
と、原作にはあります。本当は蒲団ではなく行李から抜き取っておいた腰巻(注1)がモデルになっているのではないかと考えてしまいました。しかし、腰巻の匂いを嗅いでは単なる変態フェチ小説になってしまいます。足袋もいけません。そうなると、蒲団と夜着になるのでしょうか。

田山花袋が33歳で受け入れた弟子である岡田美知代さんがモデルになったと言われています。彼女は2年後には故郷に返されました。小説同様に、似たようなことは起きたのでしょうか。違うとすれば嗅いだのは蒲団ではなく、腰巻ではなかったのかと。(くどい)






注1)今で言うパンティ。当時は穿かずに腰に巻いた。






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サクラは散らない



今は、そろそろ大方の入学試験が終わった頃でしょうか。

覚えていない位、昔の出来事でした。その雨の日、第一志望校の合格発表の掲示板を見に行きました。何度も何度も自分の受験番号を掲示板に探しました。試験結果には自信があったし、よもや自分が不合格になるだなんてことは微塵も思いませんでした。しかし、現実には自分の番号を見つけることはできませんでした。

かような現実を抱えて始まった以降の人生。ミニチは、こう思うのです。サクラは散らない。自分で散らせなければいいのではないかなと。外のサクラが散ろうと、合格発表のサクラが散ろうと、自分の内なるサクラを自分で散らしてしまわなければ、


サクラは散ることがないと信じています。



サクラ、咲ケ!



二・二六事件2


腐敗した政府は革命なりクーデターといった暴力での事態打開を誘発しかねません。そんな話は、古今東西、事例に尽きません。しかし、歴史を眺めるならば、暴力による解決は暴力を生み出すだけではなかったのではないでしょうか。若き将官は善良ゆえに煽動されての暴走をしたと思えてなりません。

皇国であることは結構です(注5)が、国家を統制する者たちが自己の責務と義務の自覚なしには国としての体裁を成しえません。明治維新のインセンティブであった元老政治が破綻し、元老山県有朋の用意した政党政治(初代平民宰相をだした政友会)も国民の期待を裏切り、その雰囲気が結果として若い将校達の暴走を許しました。

起きるべきして起きた暴走をもたらしたのは、汚職といった非合法利益から法規制拡大解釈の既得権(注6)にしがみついた薩長閥から続く政治家とその仲間たち(政商)たちだったように思えます。つまりは国家の管理統制組織の自浄作用が働かなくなった時、国家は破綻しました。(注7)

右翼ばかりが日本を暴走させたのではありません。左翼も迷走を続けて内部抗争に明け暮れていました。(注8)三・十五事件の被害者のように描かれる渡辺政之輔共産党書記長は逃亡先の台湾で警察に追い詰められた後、ピストル自殺をします。

では、それまで何をしていたか?ソ連(注9)の共産党本部からもらった金で芸者遊びを繰り返していました。ミニチが言ったのではありません。山本夏彦氏が「百年分を一時間で」のP131に書いております。文句がございましたら、文言春秋社へお願いしたいものです。

話を暴力に戻します。テロと名のつく暴力にせよ、クーデターと名のつく暴力にせよ、革命と名のつく暴力にせよ、社会の改善には何も役立たないように信じております。思想家であるヴォルター・ベンヤミンは、ユダヤ人故にナチスドイツの追求を受け、逃亡半ばに客死されました。

しかし、彼は逃亡生活の途中においても、「暴力批判論」を書き上げました。学生諸君には、社会にでて汚れた大人になる前にぜひとも一読しておきたい一冊です。昔は単行本でしたが今は岩波文庫で購入できるようです。







注1)問題は天皇制を自己の利益獲得に利用した国賊が大勢いた点にあると思われます。

注2)現在の官僚の天下りがこれに相当するのではないでしょうか。

注3)日清戦争で勝てたのは、清朝が腐敗しきっていてくれたからに思えてなりません。調子に乗ってロシアと戦争したことで国家経営戦略の破綻を期したのではないでしょうか。

注4)ちゃんと左翼勢力の当時の内部抗争を記述しないのも不公平感があります。しかし、他国から貰った金でドンチャン遊びをしていた位ですから真剣に調べるには値しません。

注5)昔、そういう名前の国家があったが無くなった。お陰で、ビートルズのBack to USSRも意味不明になった今日この頃。



参考文献
遠山茂樹 今井清一 藤原彰 著/ 昭和史(新版) 岩波新書 第67刷
山本夏彦 著/ 百年分を一時間で 文春新書 第1刷
ヴォルター・ベンヤミン著   野村 修 編訳/ 岩波文庫 

二・二六事件1


戦前より世の中にわんさかと右翼はおりましたし、現在も沢山おります。一番怖いのは、昔で言えば北一輝氏のような右翼思想家でしょうか。現代であれば、宮崎学氏のような右翼が一番怖いのです。桜井よしこ氏も小林よしのり氏も怖くはありません。

プロパガンダ主体のアジテータションは思想とは呼びません。いわんや、拡声器で支離滅裂、論理破綻、阿鼻驚嘆の叫び声をだすだけの右翼団体にはアジテーターにすらなっておりません。

皇族に一番嫌われているであろう団体が靖国神社付近を走る姿は滑稽です。更に在日朝鮮人が所属するような右翼団体は単なる暴力団です。構成員にとっての自己矛盾が自己矛盾とならないのは、団体の主目的が政治ではないからです。

さて、北一輝の思想は軍部の一部勢力によって具現化されました。(注1)それが二・二六事件です。

1936年2月26日早朝に皇道派青年将校段によるクーデターが起こされました。(注2)青年将校団は陸軍上層部の政治的反応に期待をしました。しかし、彼らが行った重臣達へのテロは昭和天皇の逆鱗に触れました。海軍は連合艦隊を東京湾に終結し対峙する姿勢を示しました。

頼みの陸軍上層部は反乱軍の烙印を押して、わずか三日後にはトカゲの尻尾きりとされた次第です。岩波新書の「昭和史」P130によれば、「青年将校や民間右翼はもはや主役ではなく、陸軍省なり参謀本部なりの当局者に使われる役割にかわった」と記されています。実際、石原莞爾の参謀本部改革案を通して戦争を前提とした国策が着々と具現化され始めました。(注3)

加藤周一氏は、「羊の歌」(注4)の中で、「反乱軍の将校に同情したのではなく、反乱軍の将校が裏切られたということのなかに、政治的な権力というものの言語道断な冷酷さを見たのである。政治に近よるべからず。そこでは誠意が裏切られ、理想主義が利用され、役にたたなくなれば昨日の忠誠が今日の謀反とされるだろう。」と述べております。

更に、著者は事件後に入学した第一高等学校にて事件に絶望する矢内原忠雄教授の講義にて、「そのとき私たちは今ここで日本の最後の自由主義者の最後の遺言を聞いているのだということを、はっきりと感じた。」と書かれました。



ところで、山本夏彦氏が言うところの「善良というものは、たまらぬものだ。危険なものだ。殺せといえば、殺すものだ」とはよくいったものです。実際に青年将校たちは純粋で善良だったのだと思えます。


ある将校は、妻に「死ぬ迄恋女房に惚れ候」と言い残しました。大切なものを失ってまでクーデターへ参画したのは功名心といった陳腐なものではなかったと思えるのです。







注1)北一輝の最大の仕事は1930年1月開催されたロンドン海軍軍縮会議での結果を統帥権干犯問題として軍部に吹き込んだことにあるように思えます。

注2)似たような事件で五・十五事件がありますが、これは血盟団による仕業で、二・二六事件の4年前である1932年の5月15日です。

注3)石原莞爾が国策の前提に対ソ戦争と兵站作戦(要するに満州と蒙古の支配拡大)を据えるのは軍人ですから当り前のことです。詳細は、「参謀本部と陸軍大学校」の第七章「石原莞爾の挫折」に述べられております。

注4)その昔、加藤周一と小林秀雄は現代文の試験にでるから読んでおけと言われました。今は如何なのでしょうか。



参考文献
遠山茂樹 今井清一 藤原彰 著/ 昭和史(新版) 岩波新書 第67刷
加藤周一 著/ 羊の歌 -わが回想 岩波新書 第45刷
黒野 耐 著/ 参謀本部と陸軍大学校 講談社現代新書 第1刷

アラフォー


当初は、アラ、アホーに聞こえました。無礼者めと思ったのは勘違いでした。昨年の流行語だったようですが、意味をしったのは年明けでした。40歳前後という意味らしいです。虎豹熊羆も四獣(注1)ですし、瀬戸内寂聴さんの門弟さんも尼衆(注2)です。京の尼衆は景愛寺などと洒落てみたいものです。(注3)



話が脱線しました。

40といえば、不惑の四十が有名です。孔子が言っていたそうです。もっとも当時の平均寿命を考えるなら、人生の最終期に入っていますので完成を急げという意味の方が大きいかもしれません。17世紀に入ってからでさえ、織田信長も人生50年と詠いました。人生は短いものでした。現在の日本では男性でも75歳までは半分が生きているそうなので、時間の感覚の違いが生じてしまいます。

しかしながら、40歳前後は脂ののったよい仕事が出来る時期ということには今も昔も変わりはないようです。森有礼は38歳で初代文部大臣になりました。今でこそ文部大臣なんぞは誰でも指名さえされれば務まりますが(注4)、当時はそうはいきません。教育機関は藩ごとの藩校か寺子屋しかなかったのです。国家としての教育制度を作り上げるのは大仕事になります。ちなみに、先述の織田信長が38歳の時にやったことと言えば、比叡山の焼き討ちです。坊主、丸焼き。

40代後半で大仕事をした例もございます。三国志に登場する諸葛亮孔明は、「臣亮言。先帝創業未半、而中道崩ソ(注5)。今天下三分、益州疲弊。」に始まる名文出師の表を46歳の時に献じました。四十代後半もまだまだ創造的な仕事が出来るはずだと自分を励ましたいものです。




注1)青竜・朱雀・玄武・白虎の四神も四獣とも言う。戊辰戦争では会津藩は、青竜隊(36-49歳)・朱雀隊(18-35歳)・玄武隊(50歳以上)・白虎隊(16歳、17歳)を結成し、薩長クーデター軍と対峙することになります。白虎隊の悲劇は圧倒的な武力の差があるにも関わらず停戦和議を結ぼうとしなかった薩長両藩にあると言っても過言ではありません。

注2)シジュウと読みます。ここ駄洒落です。笑ってください。

注3)ここも駄洒落です。笑ってください。

注4)官僚が用意した原稿ぐらいは読めないと不味いらしいです。

注5)IMEはバカだから崩ソの「ソ」が表示不可。一タ偏に且と書きます。



参考文献
新村出 編/ 広辞苑 岩波書店 第六版第1刷
星亮一 著/ 会津落城 -戊辰戦争最大の悲劇 中公新書 第1刷
井波律子 著/ 三国志演義 岩波書 第4刷
渡辺精一 著/ 朗読してみたい中国古典の名文 祥伝社書 第1刷




洗濯ばさみ

乳首につけたり小陰唇につけたりしますね。洗濯バサミに小鈴をつけてみたり、緊縛とセットにすると更に淫らに映ります。チリンチリン響く鈴の音がいやらしさを誘います。

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お試し下さい。



森有礼


初めてづくしの方とでもいいましょうか。森有礼は、1847年に生まれました。この年、蘭学修行中の勝海舟(24歳)に長女の夢子ちゃんが生まれています。(註1)つまりは、同級生ということでしょうか。まさに激動の時代に生まれました。

まずは国立国会図書館の資料から森有礼氏の略歴を追ってみたいと思います。


以下、引用文

鹿児島生まれ。外交官、政治家。父は鹿児島藩士。藩校造士館、藩洋学校開成所に学ぶ。慶応元年(1865)藩の留学生として英国に留学。米国を経て明治元年(1868)帰国後、新政府において徴士、外国官権判事、公議所議長心得、制度寮副総裁心得などをつとめる。一時離職し郷里に戻るが、再び出仕。米国在勤後の6年(1873)明六社を設立するなど、欧米思想の啓蒙に尽力。8年(1875)商法講習所設立に参画。以後駐清公使、外務大輔、駐英公使、参事院議官兼文部省御用掛等を歴任。第1次伊藤、黒田各内閣の文相となる。憲法発布当日、国粋主義者に襲われ翌日死去。

以上が、略歴となります。今度は、森有礼氏の足跡を時代背景と並べて追ってみたいと思います。

1853年6月 7歳の時に、ペリーが黒船を連ねて来航しました。太平の眠りを覚ます蒸気船たった四杯で夜も眠れずと狂歌が詠まれました。

1859年 12歳の時に安政の大獄が終わり、翌年1860年に桜田門外の変が起きました。

1861年 14歳の時に米国では南北戦争が始まりました。森有礼の留学4年前の出来事になります。

1863年 16歳の時にリンカーン大統領が奴隷解放宣言をします。

1865年 18歳の時に米国では南軍のリー将軍が降参し、南北戦争が終わりました。この年に、薩摩藩の留学生として英国に洋行しました。

1867年 20歳の年は大きく時代が動きました。10月に大政奉還、11月に坂本竜馬が暗殺され、12月に王政復古クーデターが起こされます。

1868年 21歳の年は、1月に鳥羽伏見の戦い、4月に江戸開城、戊辰戦争を経て榎本武揚が函館五稜郭へ立てこもったのが12月でした。英国から米国を経て日本に帰国した年となります。イヤーロッパク明治維新と唱えると覚えやすいです。新しい時代に突入したとはいえ、薩長閥が自浄作用を持たぬため後年の災難はここに始まったと思われます。

1869年 22歳の年は、版籍奉還がありました。

1870年 23歳の年は、廃藩置県がありました。

1873年 26歳の年は、地租改正が決りました。明六社を設立したのはこの年になります。この啓蒙活動を目的として設立された団体が今日の学士院への系譜を作り出しました。現在、文部科学省の重要な天下り先程度に考えるのが妥当でしょうか。(暴言)

1875年 28歳の年は、広瀬阿常さんと結婚契約書を交わした第一号。福沢諭吉を立会いにした人前結婚式だったようです。これまた第一号でしょうか。同郷で同学年だった古市静子との婚約破棄の話はありますが、年齢を考えるに広瀬さんと結婚する5年ほど前には別れていると思われます。

1877年 30歳の年は、西南戦争が終わり、西郷隆盛は非業の死を遂げました。弟の従道はちゃっかりと後年に入閣しました。

1883年 36歳の年に、鹿鳴館が竣工されます。なお、この鹿鳴館は、後年に払い下げになります。1887年に条約改正に失敗し、急進的な欧米化策に対する世間の顰蹙を抑えきれなくなったというのが定説です。

1885年 38歳の年は、第一次伊藤内閣(平均年齢45歳)で内閣最年少で初代文部大臣に就任しました。以来、38歳での入閣は野田聖子郵政大臣(1998年就任)まで無いのではないでしょうか。正確に調べてはいませんが、2008年に小渕優子特命担当大臣が35歳で就任しているのが日本の最年少記録でしょうか。もっとも、野田氏も小渕氏も世襲議員ですので、森氏と比較は無理がございます。教育の程度もすこぶる違いがあるようです。(註3)要するに、今は誰でも大臣になれる時代なのです。この際ですからモーニング娘で内閣改造をしては如何でしょうか。見栄えもよくなり内閣の支持率はぐぐんとアップするのは間違いありません。漢字が読めないのは総理大臣も同じですから何も問題はありません。なんて、夢のある国なのでしょう。

ところで、森有礼の話からはそれますが、初代内閣にて榎本武揚だけが元幕臣の身分から逓信大臣(郵政大臣)に就任しています。それ以外は全て長州6名、薩摩5名、佐賀1名(大隈重信)、肥後1名(井上毅)の構成です。勝てば官軍とはよく言ったものです。

1886年 39歳で離婚します。夫人の不倫で離婚した噂ありと山本夏彦氏は話されております。(註4)一説には青い目の子供を産んだからだと噂されています。鹿鳴館が閉鎖される前年のことです。鹿鳴館閉鎖の理由に関わるのだろうか等と勘ぐってしまいます。性根が下司だとこれだからいけません。

1888年 4月30日に同郷で似た境遇に生まれた7歳年上の黒田内閣のもとで文部大臣に就任しました。41歳でした。



その後、1889年の帝国憲法発布の日に暗殺されました。彼の葬列を見送るエピソードは、夏目漱石の「三四郎」にもでてきます。(註2)作品の中では広田先生が、糞寒い中を駆り出されて行列を作ったんだけど、葬送ってより見物って感じ?などといった内容を述べています。他人の葬式なんぞ、そんなものです。



森有礼氏をなぞりつつ、明治を綴ってみました。つくづく激動の時代を若い力が集まって乗り切ったものだと感じます。




註1)松浦 玲 著/勝海舟 -緯線前夜の群像3 中公新書 第39刷

註2)夏目漱石 著/三四郎 岩波文庫 第93刷 P267をご参照ください。

註3)森有礼が下級武士ながらも薩摩藩校での成績を認められて留学したのに対して、野田氏も小渕氏も親が議員だったという運(?)がありました。日本の大学は入るのは難しいが卒業は簡単と揶揄されることが多々ありますが、お嬢さん学校やお坊ちゃん学校は生まれるべき家に生まれれば入るのも簡単です。故に、彼女たちが官僚を使いこなせる程に猛勉強してきたかというと疑問が多く残ります。但し、両氏ともに日本の少子化問題を考えるには適任だとは思います。

註4)山本夏彦 著/誰か「戦前」を知らないか 文春新書 第10刷 P214をご参照ください。

スーパー銭湯2


先だって、とっても危うい目にあいました。


サウナでのことでした。スチームの熱気に包まれた室内で、



すかしっ屁




をしそうになり、慌てて外にでました。見つかったら袋叩きにされていました。ああ、恐ろしい。




織田信長


日本史に彼の占める地位は非常に高いものがあります。中世から近世への過渡期にて中心人物になったとさえ言えるのではないでしょうか。ゲーム「信長の野望」も有名です。

脇田修教授の著作である「織田信長」に惹かれたのは副題に示された「中世最後の覇者」という言葉でした。まるで旧きものを倒し、新しいものを建てたかのように語られる織田信長像を土地所有制度の側面から眺めており、土地所有や税制、交通という点では中世最後の人物という位置づけが正しいという内容でした。

更に織田信長と当時の環境について詳細を調べてみようと思い(注1)、読んでみたのが、「織田信長合戦全録」、「信長と消えた家臣たち」、「信長の親衛隊」でした。なんと、三冊とも同じ方の著作でした。既に定年退職されているかと思いますが、中学校教諭を勤める傍らで上述の著作を谷口克広氏は出版されております。

「織田信長合戦全録」は付録の年表が非常に見やすくまとまっております。「信長と消えた家臣たち」は人名索引が資料として使いやすさが考慮されております。「信長の親衛隊」は人名事典が巻末の付録についており読み甲斐も資料としての使い勝手もよい新書です。なお、谷口克広氏は「織田信長家臣人名辞典」を吉川弘文館から出版されておりますので、より専門性を求められる場合はこちらをお勧めします。






注1)なんのことはない、ゲーム「信長の野望」攻略のヒントになると下心を抱いたに過ぎません。結果は、ゲームには何一つ役立ちませんでした。(泣)



参考文献
脇田修著/ 織田信長 -中世最後の覇者 中公新書 第10刷
谷口克広著/ 信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反 中公新書 第1刷
谷口克広著/ 信長の親衛隊 -戦国覇者の多彩な人材 中公新書 第1刷
谷口克広著/ 織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで 中公新書 第1刷

スーパー銭湯1



女性はスーパー銭湯のジャグジーでオナニーしようと思えば可能です。体験記をブログで拝見することもあります。本当に、公共の場でオナニー出来てしまいます。男性にはとても真似できません。銭湯で勃起なんてさせたら白い目で見られてしまいます。挙句に、白濁液なんかだしたら、袋叩き、間違いなしです。



女性器は突き出ていませんからいくら濡れていてもばれることはありません。ジャグジーの水流をクリトリスに受け喘ぎ、アナルに水流を受け悶えるなんてことも可能です。



ジャグジーでのオナニー、経験はございますか?



シンガポール


1941年(昭和16年)12月8日に始まる真珠湾攻撃から2ヶ月ほど過ぎた1942年2月15日に大日本帝国はシンガポールを陥落させました。当時は英国の植民地でした。ラッフルズホテルのアフタヌーンティーは、その優雅さにおいて有名です。英国は日本がポツダム宣言を受諾した後、この東京23区の内側ほどの広さの植民地を取り戻しました。

しかし、李光輝という人物に日本も英国も独立の意味を知らしめてしまいました。日本は目前で行った野蛮行為により、英国はケンブリッジの教育により、彼を目覚めさせてしまいました。エズラ・F.・ヴォーゲルは、「シンガポールは、真にカリスマ的な指導者を擁するという大きな有利性をもった唯一の小龍であった」と表現しております。(註1)

李光輝(Lee Kuang Yew)はシンガポールの1959年自治領化、1965年の独立に貢献しただけに留まらず、現在の繁栄の基礎を作りました。徹底した清新的な姿勢を貫かれたようです。同氏の卓越した点は、公用語を英語に統一した点にあると思われます。シンガポールは7割が中華系国民ですが、中国語で統一されたグループとなっておりませんでした。更に、インド人やマレー人もフィリピン人も混ざった人種混合の国家となっております。そこへ、共通の言語として英語を持ち込み、堅持しております。(註2)

言語の共通化は国家として、最も大切なものだと思います。日本の台湾占領が成功した理由は、日本が軍隊を派遣した時点で統一された言語(先住民と入植中国人は別個の言語を話していたし、中国人も入植グループごとに言葉が異なった。)がなかったからです。統一言語としての日本語と教育をセットにした点が台湾経営を成功させたように思えます。反面、朝鮮半島には既にハングルという言語があるにも関わらず日本語に差し替えようとしました。これはいけません。民族感情を不用意に刺激し、反感を高めるだけです。案の定、大失敗をしました。(注1)

更に英語の公用語化のみならず、教育に徹底した競争システムを構築しました。中国語しか話せない人は、福建語であろうと客家語であろうと低賃金労働で生きる以外の選択肢はありません。この状況は、小学校時代から大学卒業にいたるまでの成績で人生が決ります。ドイツ同様に小学生時代の成績で、大学進学不可とする発想は理解に苦しみます。大器晩成という発想はないようです。ショッピングモールのフードコートに行くと、グループで勉強をしている子供達を多く見受けます。ミニチは外では走り回り、家では読書して過ごすことのほうが幸せな子供時代のように思えてなりません。


シンガポールはアジアの中では、安全で清潔な国ですが、何処か息苦しさを拭えない空気の漂う街です。




註1)エズラ・F・ヴォーゲル著 渡辺利夫訳「アジア四小龍」中公新書のP107参照。アジア四小龍は、台湾・韓国・シンガポール・香港と示めされた国々。NIESとも一時期は呼ばれていました。

註2)中国語推進を訴えていたある政治家は逮捕&全財産没収されるに至るまで、罠に見事なまでに嵌められました。最初から人は悪さをするという視点を感じます。

注1)併合そのものが戦略として失敗だったと思います。



参考文献
エズラ・F・ヴォーゲル著 渡辺利夫訳 / アジア四小龍 いかにして今日を築いたか 中公新書 

田村慶子 著 / 頭脳国家シンガポール 超管理の彼方に 講談社現代新書 第2刷
遠山茂樹 今井清一 藤原彰 著 / 昭和史(新版) 岩波新書 第67刷



アワビです。

磯野家にサザエさんはいてもアワビさんはいません。

磯野アワビ


ずっと片思いなのでしょうか?



さて、アワビと牡蠣やはいずれもおまんこを想像させてくれます。国民的番組でおまんこはよろしくないです。家族の団欒中にテレビでおまんこが放送されてはうろたえてしまいます。



ところで、ますおさんはサザエさんとセックスレスでオナニー(マスカキ)ばかりと思うのは勘ぐり過ぎでしょうか。長谷川町子さんも男の性に対しては隙をみせたものです。(嘘)



秦檜夫妻

中国の杭州(注1)は岳王廟にある秦檜夫妻の像です。

奏檜夫妻


売国奴の汚名を着せられたが故に唾ぺっぺ人形にされてしまいました。一応、唾を吐きかけないでねと掲示はされているようです。痰が混ざるだの、インフルエンザが混ざるだのした唾を浴び続けるのは気の毒です。

死人に鞭打つという行為は、日本人の情緒・感覚としては違和感を覚えます。ましてや、歴史評価が曖昧なままに売国奴の烙印を押し、唾を吐くというのは卑怯な行為にすら感じます。負けた者へのいたわり・慈悲を与えるのが器の大小に関わると感じるのではないでしょうか。高橋睦郎氏は、雑誌「図書」2009年1月号にて、平家物語が源平両軍の死者へ公平な鎮魂をもとめて同物語が書かれたと指摘しております。(註1)

更に、元寇で来襲した元や高句麗の兵達の死を碑にて慰む、慶長の役で首実検代わりに差し出された耳をもって耳塚を作り、高野山にも高麗陣敵味方供養碑をたて(註2)敵兵の霊を慰むという配慮は、日本人であるならば自然に理解し得る感覚と思えます。

もっとも、死者の魂が荒れるのは怨みを残さざる得ない被害にあったからに過ぎず、菅原道真を祭った天神様にしても藤原兄弟でやることやっておいて何を今更の感が拭えないような気もします。梅原猛 著/隠された十字架 新潮文庫 第26刷には、聖徳太子の一族を鎮める為に法隆寺が建立された説が主張されております。これも、謀殺しておいてから現世の自分への報復に恐れての鎮魂とも受け取れなくもありません。

政治的な意図をもった鎮魂の碑は単純に日本人の敗者への配慮と言い切れないのはこの点が原因となります。しかしながら、死者に対する侮辱は死人に鞭打つ行為となり、いくらなんでもやり過ぎだという感覚は日本人が共通してもつ感性だと思われます。

この点、陰陽観に基づく世界では、悪者は死んでも悪者です。秦檜夫妻は岳飛親子を謀殺(注2)した罪を後世まで背負わされています。もういいのではないかと思いますが、仇は死後も仇のままでいるようです。中国にとって、東京裁判の戦犯は後世にも戦犯でありつづけるのです。

つまりは、靖国参拝は日本国内の問題だと主張したとしても、日中の世界観的の差異は相容れないものと思われます。外交問題にするのであれば、文化差異の研究結果を持って外務省の諸君には交渉に臨んで頂きたいものです。チャイナスクールと呼ばれるグループが真に国益を考えているならばの話ですが。





注1)杭州は地図上では上海の南西に位置する景観豊かな都市です。「生在蘇州」「穿在杭州」「食在広州」「死在柳州」という言い伝えがあるほどで絹織物が名産。京の着倒れに相当する都市で有名です。因みに、景色は蘇州、食は広州、棺桶は柳州だそうです。

註1)高橋睦郎著/雑誌「図書」2009年1月号 詩の授業-⑤ 鎮めを担う者を参照ください。

註2)呉善花 著/反日韓国に未来はない 小学館文庫 第3刷のP27参照ください。呉教授の指摘によれば荒ぶる魂を鎮め祀る習慣を日本人の特徴としております。呉善花教授は他の文献にても、同様の外国の軍隊ですら弔うに日本の特性を指摘されております。

注2)政治的対立が原因とはいえ、謀殺は謀殺です。



参考文献
呉善花 著/反日韓国に未来はない 小学館文庫 第3刷
梅原猛 著/隠された十字架 新潮文庫 第26刷

首筋

首筋は性感帯だと思います。いきなり触れるとくすぐったいだけですけど。ちゃんと手順(注1)を踏んでから、つつっと指先や舌先でなぞると悶えてしまうかたは男女問わずに多そうです。軽く歯をたてて首筋を撫でるのも淫靡な雰囲気が漂います。


首筋、お好きですか?





注1)ナニがドウとか野暮な質問はやめましょう。


アメリカへの憧憬

片岡義男氏の小説はカタカナが多い小説です。文中に何らかのカタカナが入ります。田中康夫元長野県知事がだしたなんとなくクリスタルもカタカナが多い小説?でしたが、あれはバブル前夜祭で消費に浮かれる様相が描かれているだけでした。片岡義男氏のカタカナの多さには、同氏のアメリカへの憧憬を感じます。

岩波書店の発行する雑誌「図書」2008年12月号には、片岡義男氏のエッセイが掲載されています。題名は、「ペイパーバック」に惹かれる理由」と書かれております。日本でいうところの文庫本と新書を足して二で割ったようなものでしょうか。統一された手ごろなサイズに製本され、徹底的に安価に製作された本とでもいいましょうか。片岡義男氏は、ペイパーバックを題材にパッケージという問題へ上述のエッセイで語っています。

「物心ついた日々を戦後から始めた僕は、日本を占領したアメリカ軍ときわめて近いところに日常生活を持った。」と書き、アメリカの商業文化に感化されていった経緯とその感化の中身を「パッケージ」化されたものと表しているように思えます。

いつだか小林信彦氏と片岡義男氏が対談し、小林信彦氏が片岡義男風味の作文をするというお遊び企画がありました。小林信彦氏は戦中に小学校時代を過ごしています。所謂、尋常小学校での理不尽な気合でなんとかなるという教育を経験させられた世代です。

この世代の違いが影響したのか(注1)、小林信彦氏が真似てしてみせた文章の何処かにアメリカ文化の軽薄さ(商業文化)に対する距離感を感じずにはいられませんでした。純粋にアメリカへの憧憬を選び出して綴る片岡義男氏の文章は、実はアメリカ文化の長短を織り交ぜて的確に描いてみせているように思えてなりません。






注1)小林信彦氏自身は、「日本人は笑わない」新潮文庫に収めたエッセイ「戦前からのアメニカニズム」にて、戦後生まれも戦中育ちもアメリカに対する毒され方に大差はないと書かれております。つまり、ミニチ論では小林信彦氏と片岡義男氏の違いを世代の違いに求めていますが、小林信彦氏本人は個性の違いとしております。小林信彦氏のエッセイを精読されておられる方なら感じるであろう基調になる文化が異なるからです。その点に異論はございませんが、敢えて小林信彦氏は、アメリカのサブカルチャーファンでありながらも、米国はかつて戦争した国という感覚を持っている点を強調させてもらいました。片岡義男氏はアメリカのサブカルチャーを現実として受け容れた感がございます。



竹島



竹島について、日本国政府外務省の資料に基本をおいて、問題点を列挙してみたいと思います。

1.竹島の認知
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡海を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。我が国内では、古来の「竹島」、「松島」に関する知識と、その後に欧米から伝えられた島名が混在していましたが、その最中に「松島」を望見したとする日本人が、同島の開拓を政府に願い出ました。政府は、島名の関係を明らかにするため1880(明治13)年に現地調査を行い、同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認しました。以上の経緯を踏まえ、鬱陵島は「松島」と称されることとなったため、現在の竹島の名称をいかにするかが問題となりました。このため、政府は島根県の意見も聴取しつつ、1905(明治38)年、これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名しました。今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかは過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「竹島」の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって、1905(明治38)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。この閣議決定により、我が国は竹島を領有する意思を再確認しました。島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、1905(明治38)年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制としました。あしかの捕獲は、その後、1941(昭和16)年まで続けられました。

2.第二次大戦直後の竹島
連合国は占領下の日本に対し、政治上または行政上の権力の行使を停止すべき地域、また、漁業及び捕鯨を行ってはならない地域を指令し、この中に竹島を含めました。しかし、これらの連合国による規定には、いずれもこれは領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない旨が明記されています。我が国の領土を確定したのは、その後に発効したサンフランシスコ平和条約です。このことからも、同条約が発効する以前の竹島の扱いにより、竹島の帰属の問題が影響を受けるということがないことは明らかです。

3.「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠
1952(昭和27)年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに、そのライン内に竹島を取り込みました。1953(昭和28)年3月、日米合同委員会で竹島の在日米軍の爆撃訓練区域からの解除が決定されました。これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。翌1954(昭和29)年6月、韓国内務部は韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したことを発表しました。同年8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。韓国側は、現在も引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。「李承晩ライン」の設定は、公海上における違法な線引きであるとともに、韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠です。韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このような行為は、竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認できるものではなく、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行うたびに厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。

3.国際司法裁判所への提訴の提案
1.我が国は、韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを韓国側に提案しましたが、同年10月、韓国はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっています。したがって、仮に我が国が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されないこととなります。


以上の資料から問題点を整理してみたいと思います。
1)江戸幕府の頃より竹島は領土として認識されていた。
2)第二次世界大戦後の日本領土はサンフランシスコ条約の規定に沿って確定した。
3)第二次世界大戦前に李氏朝鮮は崩壊し、日本がポツダム宣言受諾後も朝鮮半島の領土は3年も不透明なままだった。
4)李承晩ライン設定による竹島占拠は実力行使に他ならず会話による解決を困難にした。
5)日本政府が求める平和的解決策として、国際司法裁判所での解決を大韓民国は拒否している。

話し合いを避けて占拠を続けるのは、韓国政府自らが非を認めているに他ならないと断言できます。何か日本国民を説得できる材料があれば、国際司法裁判所での提訴に応じればよいだけだと思えます。




出典:日本国政府外務省HP http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/gaiyo.html#top


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