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指輪物語 <上>

「ねえ、どうして雲は流れるの?」
唐突な質問に立ち止まり、娘の手をつないだまま上を見た。蒼い空に浮かぶ雲は動いているように見えなくもない。
「動いているのかい?」
娘を見ながら尋ねてみた。
「動いているわ、ほら」
娘がもう片方の手で示した方向には動いている雲が見えた。微かに動く雲だった。
「動いているかもしれないね」
娘は手をより強く握り締めてきた。
「動いているわ」
その口調は僕の中にある何かを突き動かした。母親の恭子にそっくりの口調だった。その通りだ。君の言うとおり、動いているのだ。何層にも重なる雲の群れが動いているように僕達も其々に動いているのだ。

恭子が共働きを口にしたのはたしか彼女が32歳の時だったと思う。菜津が幼稚園にいたような気がする。記憶が定かでないのは当時の記録が残されていないからだ。奈津のアルバムは小学校三年生からしかない。それ以前の写真や菜津の描いた絵はここには無い。だから、恭子が再び働き始めたのは菜津が幼稚園の頃か小学校低学年の頃だったかをよく覚えていない。手がかりになる物は無く誰かに聞いても相手は困惑するだけだろう。

菜津という名前にした理由を娘から聞かれるようになった頃、頻繁にその訳を尋ねられた。
「どうしてわたしはナツなの?」
そう質問される度にどう答えたらよいかと考えあぐねていた。まさか、春と夏の間にある梅雨に生まれたから両方の季節から一字ずつもらって菜津にしたとは言えなかった。何となく夏を感じさせる名前にしたのは梅雨明けが近かったからだ。梅子とは呼べず雨子は論外だった。片仮名でナツにしようと提案したが恭子は拒んだ。そうだ。君は拒む時は徹底していた。

働き出した恭子が僕を拒み始めたことは薄々と分かってきた。真綿で締められる息苦しさを二人の間に感じた。狭いアパートだったし、菜津の手前、僕は不満をあからさまにすることは出来なかった。その感覚はべったりとしていた。その気味の悪い感触を時々思い出すことはあった。

ある晩、菜津が早々に寝入った夜があった。小学校の運動会が有った日だ。菜津が小学校三年生以降の記憶しか無い筈だが、その運動会が有った晩だったということは記憶にある。運動会で不思議なことに苦手な徒競走を二位でゴール出来た瞬間は見た筈なのだか僕はそれを思い出せない。二位でゴールした様子を雄弁に誇る菜津に素知らぬ顔で僕は相槌を打つだけだった。そして、記憶の不思議な点は忘れたいことは消え去らないことだった。

あの晩が運動会の晩でなかったらとか、もっと早く僕が気ついていればという不毛な妄想の輪に陥ることはあった。しかし、早く気がついても僕に何が出来たのだろう。恭子は拒む時は拒む女だ。つまらない仮定を詮索しても何も良いことはない。考えないことが一番だと思った。

菜津は目立つ女の子ではなかった。集合写真で指差してあげないと見つからないような子供だった。成績は普通だった。良くも悪くも無かった。お行儀も良くも悪くも無かった。ただ、その顔立ちは僕にそっくりだった。菜津にとって最大の不幸は僕そっくりに生まれたことかもしれない。そう逡巡することはあった。僕は口には出さないけれど本当は恭子に似ていた方が娘の菜津には幸せだったかもしれない。しかし、無駄な妄想を抱いても仕方無い。拒む人は断固として拒むものだ。

仕事を口実に菜津の運動会には出られないけれどお弁当は用意すると恭子が言った時、いささか口論になった。僕は声を荒げて怒ることはしない。大体、このアパートで大きな声をだせば回覧板で夫婦喧嘩をふれてまわるも同然だ。僕は押し殺した声でその仕事は断れと迫った。恭子の両肩を掴み引っ張ろうとした時、恭子は引き寄せられまいと拒んだ。左手で恭子は自分の鼻と口を塞いでいた。嗅ぎたくないという仕草に見えた。その左手に指輪は無かった。

菜津が口癖にする徒競争で二位になれた運動会を思い出そうとしても、いつも思い出せなかった。陽射しが強くて妙に疲れたことは覚えていた。肝心な運動会そのものを思い出せないでいた。菜津に添い寝している内にうたた寝をしていたが風呂場から聞こえるシャワーの音で目が覚めた。闇に漏れる灯りに呼び寄せられる蛾の如く僕はふらふらと風呂場に歩み寄っていった。玄関には恭子の鞄が置きっぱなしにされていた。

風呂場に近づくと脱衣所の明かりは消されており、曇りガラスの扉で隔たれた浴室から明かりが漏れ脱衣所を照らしていた。自分でも分からないのだけれど音を立ててはいけないないと思った。そして、脱衣所に滑り込んだ。何故、音を立ててはいけないと思ったのだろうか。今でも分からない。

洗面台に外して置かれた指輪に視線が釘付けになった。その指輪は僕と同じデザインの指輪ではなかった。脱衣籠の端に見えた濃紫色の布地を引き出してみた。僕が見たこともない下着だった。怒りより興奮を覚えた。

その時、浴室の扉が開いた。タオルで身体を隠した恭子が立っていた。濡れたほつれ髪が右頬に張り付いていた。そして、自分の下着を摘みあげる夫に氷の冷笑を浴びせた。










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