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日本語が亡びるとき

よくよく調べたら、過去に記事にしていました。ですので、二度目の登場です。

著者である水村美苗氏は夏目漱石氏の遺稿となった作品を続明暗と題して出版された作家であると書けばお分かり頂けますでしょうか。ある作家の文体を真似るだけでも大変なことです。小林信彦氏は、片岡義男氏や大藪春彦氏のパロディを書きましたが、片岡義男氏の物真似は頂けませんでした。描写するモチーフの選び方、つまりは視点が違うのです。

さて、水村美苗氏に話を戻します。日本語が亡びるときを書く動機ともなった米国での講演プログラムについて書き始めています。当時、自律神経失調症と診断され、抗うつ剤・抗不安剤・睡眠薬を処方されていたと書かれています。本当に自立神経失調症で、抗うつ剤と抗不安剤が処方されるのだろうかと思いました。強めの精神安定剤と睡眠薬で充分に思えたからです。ミニチは精神科医ではないので、詳しいことは分かりかねますが。

彼女はバイリンガル作家として紹介されることが多いのですが、米国の大学・大学院ともに専攻はフランス語でした。三カ国語に堪能だと言えます。

以下、引用です。

今、人々の交流が急激にさかんになったことによって、言葉に有史以来の異変が二つおこっていると言われている。一つ目の異変は、<中略>今地球に六千ぐらいの言葉があるといわれているが、そのうちの八割以上が今世紀末までには絶滅するであろうと予測されている。二つ目の異変は、今までには存在しなかった、すべての言葉のさらに上にある、世界全域で流通する言葉が生まれたということである。それが今<普遍語>となりつつある英語にほかならない。

楽天は社内用語を英語に統一しました。まさに自らグローバルスタンダードに飛び込みました。この先、楽天はどうなるのでしょうか。同様の動きが他の企業にも広がるのでしょうか。貿易をする以上、英語は避けて通れません。勉強が必要となります。相手国についての勉強も必要になります。しかし、日本でビジネスをしている会社が海外展開を視野に入れているという理由で、日本語を捨てる行為は何か釈然としないものが残ります。

更に加筆するならば、英語で喋り、英語で聞き、英語で書くという事は、「英語で考える」必要が生じます。日本人のメンタリティを捨てた状態でなければ、頭の中を英語に切り替えて思考し、会話し、書くということは出来ません。始めに結論があり、何故に持論が正しいのかという論理展開が求められますし、その為には強い自己主張が必要になります。よくハンドルを握ると人が変わるという話がありますが、それと似た状況が生じます。日本人でも、普段は小声で控えめなプレゼンを行う人が、英語でのプレゼンになると強烈なアピールを行います。何故ならば、彼の頭の中は英語に切り替わっているからです。これをリスクと考えるのか、国際的競争力の為には必要だと考えるのかは議論の余地がかなりあるのではないでしょうか。

以下、再びの引用です。

格差社会になりつつあるといわれていても、世界を広い目で見れば、少なくとも今のところ、日本は極めて格差の少ない社会の一つである。すでにこれだけの中流層があるとき、そのような少数の<選ばれた人>とその他の人のあいだに大きな情報の差が生じるとも思えない。

上述の部分は日本が亡びることを避けるには国益を代表するエリートの育成は必要ではあるが、国民全体が英語教育にこれ以上浸かる必要は無いことを意味しています。収入の格差についての論議ではありません。インターネットを通して、情報は富める者も貧しき者も、瞬時に手に入れることが出来ると述べています。ひとつの考え方でしょう。

以下も引用です。

日本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提-すなわち、先ほども言ったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。<中略>人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、永い<書き言葉>の伝統をもった日本語なのである。<国語>こそ可能な限り格差をなくすべきなのである。

同書では、普遍語・公用語・母語・国語と細かな規定を行った上で言葉について分析をしており、普遍語となった英語が世界を覆い尽くすと予言しています。彼女は、国語を「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」として規定しています。日本人にとって日本語は何かと問いかけています。

以下も引用です。

日本の国語教育においては、すべての生徒が、少なくとも、日本近代文学の<読まれるべき言葉>に親しむことができるきっかけを与えるべきである。子供のころあれだけ濃度の高い文章に触れたら、今巷に漫然と流通している文章がいかに安易なものか肌でわかるようになるはずである。

あれだけ濃度の高い文章とは、紫式部にはじまり、それら古典の積み重ねの上に成り立った近代文学をさしています。彼女の指摘通り、巷に溢れる間違った日本語は正されていくべきでしょう。残念なことに、すべての子供たち、未成年、現役世代は書き言葉を学校教育では受けておりません。独学で少しづづ学んでいくしか道は残されていないようです。




皆さまは、如何お考えでしょうか?



関連URL:日本語が亡びるとき






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コメント

感想

関連書籍を読んでいないのにコメント
する事をお許し下さいませ。
ビジネス英語とコミニケーションとで
同じ英語でも伝わり方が違うと通訳の
経験者の父親がよく話してました(笑)
日本語の教育としては…
小倉百人一首の歌の意味などを調べる
授業を増やせば自然と日本人の感性や
言葉を学ぶきっかけになると思います。
自分はエロの視点から詠んでますが…
⋈*⋆┠┨⍺ѵє ⍺ ɢㆀԀ Ԁ੨ƴ ⋆*⋈⚕͙⚕ ⁎❛ั◡❛ั⁎
たまにはマジメな?MAMA♡より。

higher education

日本人同士の英語の練習は、なるべくしない方が良い。
日本語で通じるのに英語で話し合うのも煩わしいし、能率が悪い。
ともすれば、英文を見て、それにふさわしい和文を作る勉強になる。
それでは、日本人が英米人の考え方を学ぶことにはならない。

たとえば、日本人の首相が’Trust me.’ (俺に任せろ)と言って、アメリカの大統領が ‘Are you sure?’ (自信はあるのか) と言ったとすると、至極日常的な会話のように聞こえる。
ところが、首相の方には腹案しかなく、大統領の方はまだ聞かせてもらっていない成案に関する可能性について尋ねていると知ったら、この会話はまったく無意味であることになる。
日本語脳では、未来時制に関する内容が不確かなので、腹案は正式な現実対応策として発表されることはない。
だから、我が国の英語教育における英文和訳の練習は、実用の段階の手前でストップしている。
これから先は、時制を使った英語の再教育であり、英米流の高等教育の段階である。
英米流の大人の教育は、やはり英米に留学することが最も効率の良い勉強法であると考えられる。
これは、日本語脳を温存した12歳の語学留学とは違ったものである。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


崇徳院

瀬をはやみ岩にせかるゝ瀧川の
われても末に
あはむとぞ思ふ

私の大好きな句ですが
英語に訳すと
どうなるのでしょう?
何だかシンプルに事実だけを伝えて
日本的情緒が消えてしまう気がします。

knight☆&MAMA♡さんへ

コメント、ありがとうございます。
私的な交友関係で使う英語とビジネスで使う英語は別物ですね。特に、ビジネス英語は重要な項目は文書にしますので、難易度は飛躍的に高くなります。

英語教育も結構ですが、まずは日本語からと個人的には感じております。

麗子さんへ

コメント、ありがとうございます。

崇徳院できましたか。さすがです。

例えば、日本と米国では川の印象がかなり異なるのではないでしょうか。ゆっくりと流れる大河を思い浮かべる国で、濁流が分かれ、再び合流する様子は想像不可能だと思います。(米国の全ての川が大河とは限りませんし、英国の川については想像不可能なので何とも言えませんが。)

おっしゃる通り、翻訳は難しいでしょうね。関連した記事である
http://minichi.blog62.fc2.com/blog-entry-559.html
をご参照頂ければと思います。

Re: noga さんへ

コメント、ありがとうございます。
的確な事例も挙げて頂き、感謝しております。時制の概念は差異を示す上で非常に分かりやすいと思いました。

一国の代表が、trust meは無いだろうと感じています。感覚の問題ですが、お友達とお話している訳ではないでしょうにと言いたくなります。

英語教育についてですが、英米への留学が王道だとは思いますが、一部のエリート候補生だけで充分だと思います。(水村氏の意見に共感しています。)

6月24日に語学留学について、6月28日に英語について記事を掲載予定しております。また、コメントを頂ければ幸いです。

大変参考になるコメントをありがとうございました。

ちはやふる奥の細道

関連記事読ませていただきました。

「ちはやふる奥の細道」
絶対読んでみます!

みにち様に「さすがです。」と、言われたら
ノーベル賞取るより嬉しいですね(笑)。

麗子さんへ

お勧めの一冊です。

多分、書店には並んでいないと思います。古書店か図書館で探してみて下さい。

そうですね

言葉は生き物だと常々思っていますが、
これはまた違う次元の話です。

TOECIで何点以上でなければ入社できない、とかもありますしね。
それはそれでいいと思いますが、母国語を満足にできないのに
外国語なんて絶対に無理だと思います。


源氏物語は好きではありませんが、レベルの高さを感じます。
英語に訳されたものを見たことがありますが、
古きよき日本語であるからこそのレベルであったのだと実感しました。


英語よりも日本語の教育に力を入れていただきたいです。
「日本語」自体が死語になるということだけは避けてもらいたいです

リナさんへ

コメント、ありがとうございます。

ご指摘の通り、言葉は生き物ですが水村氏が示唆しているのは別次元の話だと思います。すなわち、近代文学が消えている現実をどう考えるのかと問題提起されたと思われます。

水村氏は夏目漱石こそが近代日本語の原点だと述べています。これは、円本ブームにのって出版された夏目漱石を読み込まれた結果だと推測しております。そして、水村氏が読まれた夏目漱石は、現在の書店に並ぶそれではなく、旧字旧仮名遣いで書かれた夏目漱石ではなかったかと推測されます。つまりは、水村氏が読んだ夏目漱石と一般的に読まれている夏目漱石は「違う」ということになります。既に、日本語は崩れていると言われたも同然だと考えられます。

話は英語になりますが、TOEICは入社試験のみならず入社後もスコアアップは求められています。あのテストは英語力が丸裸にされてしまいます。人材の評価項目に組み込まれるのは仕方ない話かもしれません。しかし、日本語の基礎が無いことは、グローバルスタンダードを無条件に受け入れることになります。つまりは、日本語で考える事が出来るからこそ日本人でいられるのであり、英語思考を全面的に受け入れることは日本人であるという主体性の放棄につながる危険をはらむのではないでしょうか。これ、自分のスコアの言い訳ですが。

源氏物語を英訳と対比されたのは素晴らしい体験だと思います。原典と現代訳と翻訳(この場合は英語。)を比較することは、読む体験を豊かにさせてくれると外山茂比古氏は「異本論」の中で述べられています。(あー、ここでネタを一つ使ってしまった。)

日本語が死語にならない為に何をなすべきか?これは非常に難しい問題です。せめて、現代訳の古典(文語が死滅した前提で。)を正しく読むこと、現代訳の古典に準じた日本語が書けることの2点を学校で学ぶしかないと思えます。

山本夏彦氏は、外と内で言葉を使い分ける必要を散々書かれています。これは、携帯メール言葉と正式な文章の書き分けが出来ること(書く言葉)、せめて旧かな・旧字の本が読める語彙をもつこと(読む言葉)、丁寧語・敬語・謙譲語の区別がつくこと(話す言葉)を意味していると解釈しております。(あー、またもやネタを使ってしまった。おまけにパッシングを受けそうな内容だ。)具体策は、こういった内容になるのではないでしょうか。

このレスを書く為、一時間の長考に沈ませてもらいました。今後も今回同様に考える機会を頂ければ幸いです。









わざわざ

ありがとうございます。
長考にネタを二つも使わせてしまってすいません。


高校で夏目漱石の「こころ」をやりましたが、すべて現代語でした。
全文がやりたくて本を探しましたが、圧倒的に現代語のほうが多かったです。
物足りなさと文学の息遣いを知りたくて旧字、旧仮名遣いのほうを読みましたが。
比べるとやはり旧字、旧仮名遣いのほうが面白さはあったと思います。
それを思うと近代文学としては崩れてしまったのでしょうが、
日本語が崩れたのとは異なる気が。
生き物の話に戻ってしまうのですが、時代とともに言葉が変化するのは仕方のないことかと。
それを日本語全体で考えるのであれば、ほかの言語も崩れています。
ドイツ語で、ですが、格変化が以前とは異なるそうです。
所有格のとき、名詞に「s」がついただけだったそうですが、
最近は「es」がつくのが多くなったそうです。
もともと「es」がなかったわけではないようでしたが、限られた語だけだったとのこと。
最近では多くのものに「es」を付けるようになったそうです。
これはドイツ語の崩れ、となってしまうのではないのですか?
そこまで詳しくしたわけではないので一概には言えませんが、これと同じようなものかと。



日本語で考えられるからこその日本人であると思うので、全面的に受け入れると主体性の放棄につながると思います。
友人に中国出身の方がいますが、やはり考えるのは中国語とのこと。
日本語がどんなにうまくともそのようです。
全面的に受け入れるとなるとそれができなくなる可能性を秘めていると思います。
母国語はアイデンティティーの一つでもあるかと。
私もスコアの言い訳になりそうですが。


外と内で言葉を使い分けるのは必要かと。
このことに焦点を当てると日本語は崩れているとしてもおかしくない状況だと思います。
敬体、常体が入り混じったへんなレポートを出している人がいましたが、「いよいよこれは。」と思いました。



考えきれていないのにコメントをするのはどうかと思いましたが、結論が出ないような気がしたので、中途半端ですがコメントさせていただきます。
久方ぶりにここまで考えたと思います。ありがとうございます。

リナさんへ

言葉が生き物である以上は変化は仕方ないという考え方はある程度は許容出来る範囲と考えております。しかしながら、現在使う日本語が何を基礎とすべきかは議論の余地があるかと思います。

例えば、書き言葉の変化は何時代までさかのぼればよいのかという問題も生じます。男性は漢文、女性は仮名遣いで書く時代まで遡るのは現実的ではありません。土佐日記のように新しい試み(つまりは女性の文体で男性が書く試みは、主流にはなれませんでした。故に、ひとつの起点として、水村氏が夏目漱石を日本語の基礎と示した意味は大きいと思えます。しかし、夏目漱石の原典が日本語の基礎であるという説に従うならば、現在の日本語は崩れたと言わざる得ません。文章が変化しておりますから、変化した(外山滋比古氏の説によるならば、異本の出現。)と考えざるえないのではないでしょうか。

夏目漱石を原典で読まれたのは、貴重な体験をされていると思います。生憎、ミニチは原典は読んでいませんので、その素晴らしさを理解することはできません。リナさんは有意義な生活を送られていると羨ましくなります。

さて、日本語は崩れていると思える理由にはもう一つの理由があると考えています。それは、日本語は表意文字であることが挙げられます。日本語が変化(旧字・旧仮名遣いの死滅。)したことは、リナさん自身が夏目漱石の原典と現代訳を読んだ時の違和感に現れているのではないでしょうか。つまりは、現代訳の日本語は既に崩れたと同意だと思えます。

更に追記するならば、表音文字の文化と表音文字の文化の決定的な違いがあると思えます。韓国を例にとるならば、韓国はハングルと漢字の併用から、漢字を放棄しました。その悪影響で抽象論が出来なくなった事を呉善花氏は韓国に対して警鐘を鳴らし続けています。表意文字の放棄は言語の崩壊を招きかねない事例だと考えられます。(再び、ネタを使ってしまった。)

ドイツ語は、グーテンタークとホイで始まる汚い言葉しか分からないので詳しい事は分かりません。しかし、ショウペンハウエルは岩波文庫から出版されている「読書について」の中でドイツ語の乱れを指摘していたと記憶しています。19世紀からドイツ語の書き言葉は崩壊が始まっていると考えられます。(本棚を調べたのですが、文献は見付かりませんでした。記憶違いがあるかもしれません。)表音文字の世界でさえ、文法の乱れは問題視されていたことになります。

いわんや、表意文字の文化における文字の変化は大きな問題だと考えざる得ません。

外と内での言葉の使い分けは重要だと思います。流行語でしか書いたり、会話したり出来ないことは、現在の日本社会で起きている二極化を更に推し進める結果になると思います。(これまた、パッシングを受けそうな内容ですが。)同級生のレポートに唖然とさせられた経験が物語っているのではないでしょうか。

いずれにせよ、日本語をしっかりと読み込んだ方のコメントはとても参考になります。ありがとうございました。

今回の長考は半時間でした。ご参考まで。

そうでした

なにを基礎にするか、がすっかり抜けていました。


私の年齢でも、崩れてきていると感じる部分はあります。
会話が通じず、呆然としたこともあります。
ですが、私らの年代からすれば夏目漱石は読みにくいとの意見が大半でした。
現代語でしたが。
古典などはさらにひどかったです。
と、なると私の世代では現代語は崩れではないとなってしまいます。
むしろ、古い方が変だとの意見も聞いたことがあります。
驚きのあまり、何も言えなくなりましたが。
基礎によっては「崩れ」であり、「変化」であるのかと。
美しい日本語が滅びてしまわないようにしなければなりませんが。

表意文字であることは深くかかわっていますね。
本名は旧字が入っているのですが、旧字でないとかなりの違和感があります。
ほかの旧字が入っていらっしゃる方もそうでした。
印象がかなり変わってしまいます。

新聞社の方からお話を聴く機会がありましたが、
最近は一つの語で多くの意味を表しすぎだと。
尚且つ、自分らがどの意味で使っているのかを伝達しきれていないと。
「かわいい」が例に上がっていましたが、全くその通りです。
なぜそれに「かわいい」を使う?となるようなことに多く遭遇します。
そう考えていくと、崩れきってしまったと思います。

音だけでは抽象論はできないです。
意味を表しても抽象すぎてわからないことも多くありますからね。
高校時代、どれほどパニックになったことやら。


外と内の言葉の使い分けは二極化を助長することになっているかと。
「かわいい」の例もありますし。
使い分け以前に日本語の基本ができていない気もします。
となると、やはり崩れているとなりますね。

その一方で、今、百人一首などが人気を呼んでいるように感じます。
美しさを懐古してなのかどうかはわかりませんが。


恥ずかしながら褒められるほど日本語を読み込んではいないです。

ほっといたらいつまででも考えてしまうのでここらへんで頭を冷やすこととします。
大変参考になりました。
ありがとうございます。

リナさんへ

二時間の長考に沈ませてもらいました。これが名人戦なら残りの持ち時間は一時間半となります。かなり、追い込まれています。

水村氏は近代の日本語を完成させたのが夏目漱石である故に、彼が日本語の基礎であるべきだと論じています。果たして、夏目漱石が適任なのかという検証は必要ですが、日本語の基礎は必要であると考える点では一致していると思えます。

人名に旧字を使われないことに違和感を感じられていると書かれておりますが、これは固有名詞だけの問題ではないかと思います。文章全体の問題だと考えます。

例えば、「簡単に」という表現を「単簡に」と表現された場合に何らかの違和感を感じる筈です。更に、「単簡に」が旧字で表現されていれば、読みとる感覚は更に変わると思います。その現代訳と原典から感じる感覚の違いが、リナさんの指摘されている「変化」の正体ではないかと推測していおります。

古い方が変だとか、現代訳と原典に差異を感じないとすれば、その個人の中での日本語は「崩れた」と言わざる得ないと思います。文学作品は個々によって受ける感覚が異なりますから一様にこの感じ方が正解であるという主張は成り立ちません。あくまでも、個々が現代訳や原典を読んだ時の感覚に頼ることになります。言い換えるなら、リナさんの周囲(かなり優秀な学校だと思われますが。)には、失礼な言い方になりますが、日本語が「崩れた」方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。そう考えることで、「崩れたこと」と「変化したこと」の違いが説明が出来るかと思われます。

高校時代から日本語について真剣に考え、進学後にも新聞記者という日本語のプロたるべき人と会話を持てたことは有意義な体験だと思います。

一つの言葉に誰かが勝手に新たな意味を加えることで、混乱は生じていると思います。これは、ブログというメディアや、個人メール、中高生や大学生の会話というあらゆるコミュニュケーションの場で日本語を正す行為をしなくなったことに原因があるのではなかと推測しております。相手の日本語を正す行為は、場の空気を読めない人という烙印を押されて終わりになります。崩れた日本語は放置せざる得ないのが現状ではないでしょうか。
(雲行きが怪しくなり始め、パッシングを受けかねない内容になってきました。)

経済面での二極化が進む中、コミュニュケーションの範囲も二極化が進むと考えられます。二極化は五分五分で進むのではなく、15%対85%といった内訳で進行しています。つまりは大多数が「崩れた」日本語に晒される危険が高いとなります。一層の破壊が進むと憂慮しております。

危機を回避するには、まずはテレビ、特にバラエティー番組や古典落語を除くお笑い番組を見ないことから始める必要があります。英国の上流階層は居間にテレビを置かないという話を藤原正彦氏がされておりました。居間は家族の会話の場であり、会話を通して子供に母国語・最低限の教養を正しく教える場になっているからだと推測しています。

この英国の例で言えば、映画「小さな恋のメロディ」にて、下層階級とアッパーミドルを猛烈に目指すミドルクラスの違いが見事に表現されています。まず、テレビという小道具の使い方からして違うのです。もっとも、階層の違う少年と少女が同じ学校に行くのか?という映画の根底を崩す疑問は残りますが。主演はマーク・レスターでした。

中流が上下に分断された今日の日本社会では、英国のそれを真似する事は不可能ですし、住宅事情を考えれば居間にテレビを置かないという選択肢は無いように思えます。今の日本社会で個人が出来る事は、テレビをつけないという事から始め、空いた時間に読書が出来るなら改善の余地はあるかと思えます。例え、読んでいる本が東野圭吾だけであっても何も読まないよりは良いかと思います。但し、無自覚に「崩れた」日本語を矯正するまでには至らないかとは思いますが。(更に、パッシングを受ける要素が色濃くなってきてしまいました。どうしてくれるのだ、リナさん!)

百人一首は小学校でも教材として取り入れたりする試みは数年前から始まっております。和歌を詠み、和歌を聞くことで日本固有の情緒を取り戻す可能性は期待出来ると思います。閉塞感に満ちた現代においては山上憶良は共感に近いものを感じます。(もっともと現代訳された和歌であり、万葉がなでは読みませんが。)

俳句も素晴らしい文化ですが、和歌を詠む試みも心を豊かにしてくれるのではないでしょうか。それには、百人一首から始まり、古文の勉強をし直すこと、語彙を増やすことが必要になるかとは思います。(俳句は川柳に通じるので取り組みやすいと思います。狂歌は下の句でどう笑いをいれるかが難しいので敬遠されがちになるでしょう。)

色々と考えさせて頂く機会を持て、嬉しく存じます。素晴らしいコメントをありがとうございました。

結局は

「崩れ」も「変化」も紙一重ではないかと。
何を基礎とするかによっても変わるでしょうし、
文学の読み取り方は様々ですし。

崩れた面も見受けられると同時に、ある種それは変化だと思いますし。
環境を表す語は変化して当然かと。
取り巻く環境によって感情も異なるわけですから、
これまた感情を表す語も変化する、と。




あ~、投了です(勝負していたわけではないですが)。
これ以上は考えても同じことのくりかえしになってしまったのでここまでにしときます。


ありがとうございます。
またいろいろと考えさせてください。

リナさんへ

まずはじめに、考える機会を頂けた事に対して、リナさんへ感謝させて下さい。何十年かぶりに、「日本語について考える」という体験をさせて頂きました。

かねてから、教えを乞うべき相手は年長者に限らないと考えてきましたが、やはり自分の考えてきたことは正しいと感じました。多くの示唆を頂いたことで考えることが出来たと思います。

自分自身のコメントを読み返してみると、タイプミスや文法の誤りがあり、文章の構成に誤りがあり、致命的な論理破綻がありと赤面ものです。コメント欄は記事と違い、管理画面上で修正が出来ません。書き直すべき事項が点在しておりますが、自戒の念をこめて無修正にしたいと思います。

投了など、とんでもございません。よくて千日手といったところでしょうか。実際は時間切れでミニチの負けだと思います。勝負した訳ではありませんが(笑)。

最近、旧かな遣い旧字で書かれた作品を読み始めてからモヤモヤとした感触が頭にへばりついております。文語が無くなった現代において、自分は日本語を読めているのか?書けているのか?という問いかけです。そして、それは何を日本語の基礎にしたら良いのかという問いかけになります。

昔の聖書は文語で書かれておりました。それが現代語訳に変わり、20年ほど前に中央訳へと変化していきました。(ここ十年間の聖書については翻訳がどう変わったかは未確認です。)まだ、中央訳が出版される前のことでした。現代語訳の聖書について、ある老婦人が文語の聖書でないと読んだ気がしないと言われておりました。その言葉を聞いた時には、ある種の衝撃を受けました。文語と口語の世界が日本に有ったという事実を目前にしたからです。

上述の体験以降、日本語、それ自体について深く考える事はしておりませんでした。今回、水村美苗氏の著書を読み直した折りに気になった点を記事にしてみました。ブログ再開後の真面目記事は読書備忘録になっています。

日本語は「崩れた」のか、「変化した」のかという点については、崩れたという感覚的な結論ありきになっており、論理的な説明が出来ないままになっております。

時代の変化が新しい日本語を生み出すという理解は抵抗があります。これは極めて感覚的な抵抗感です。英語が流れ込み、溢れんばかりのカタカナ語に覆われている現状に困惑しているとも言えます。

例えば、セレブとかハンサムというカタカナ語は英語を離れて(発音もスペルも意味も)、日本の社会に取り込まれて使われています。たしかに、漢字が輸入され国字も作られたという歴史は存在します。故に、日本の社会には外来語を日本化させる機能があると言えるでしょう。

それでも、現在の日本語は変化ではなく崩れだと感じます。文語が消えた事、文章の4割(妻曰く)を表意文字が占める言語が表音文字に浸食されている事の2点が先に述べた違和感を生じさせているように感じます。

例えば、近代以降のタイ語は英語がそのまま発音され、表音文字で記されています。映画「王様と私」は、タイ語が英語に浸食されていく過程という見方も出来ます。この映画は欧州の白人がアジアの黄色人種をどうみているかという問題を大きくかかえておりますが、その点については割愛します。

タイ語の語彙は近代化に伴って単語数が豊富になるほど英単語が増えてきました。これは変化ではなく、英語の浸食であると思えます。蛇足ですが、珈琲だけは英語ではなく仏語が使われています。(英語だと極めて下品な言葉になります。)

表音文字による単語は、その言葉の意味を覚えないと理解出来ません。表意文字の利便性を考えると読み手を減らすことになります。勿論、これは利便性の問題であり、「崩れた」のか「変化」したのかという問題とは無関係です。利便性を手放したくない故に、日本語が崩れてきていると自分自身が感じているだけかもしれません。その可能性は否定出来ません。

「かわいい」という単語が従来の用法を離れて使われている現実は、日本語が変化したのだという論拠になるとは思います。「全然」という言葉が肯定文にも使われるようになった事と同様に、時代によって言葉が変化する証拠だとも言えます。

それでも尚、「崩れた」という感触が離れません。その原因には辿り着けておりません。まだまだ、勉強が必要な課題だと思います。ミニチも堂々巡りに陥っております。

最後に、今後ともコメント欄にお付き合い頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。

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